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12.海の道

環日本海諸国図

富山県作成環日本海諸国図

前回、ヒスイが日本各地の縄文遺跡で発見されていると書いた。縄文時代最盛期である縄文中期に流通ルートに乗ったのは実はヒスイだけではない。秋田のアスファルト、北海道からは黒曜石、そして岩手からはコハクという具合である。このネットワークは一体何なのだろう。誰がどうやってこの大量の素材を運んだのだろうか。

金沢で開業されているH先生は知る人ぞ知る登山のエキスパートだ。冬山に一人で登り、帰りは一気にスキーで駆け下る。それこそが彼の真骨頂だ。だがその天才肌の彼の一言は意外なものだった。「雪山だから、一気に帰ってこれるんですよ。崖もブッシュもすべてその上を雪が覆っているから、スキーが使える。もし雪がなければそうはいきません」
なるほど・・・。分かったような分からないような!
実は同じ事が縄文時代にも当てはまる。縄文時代の主要交易ルート、それは陸路ではなかった。今でも石川から、長野へ抜ける道路はほんの数本だ。考えてみれば元々地上に道などはない。人々が歩んだところが新たな道となったのである。江戸時代に下ってさえ、親不知子不知 を通るのは命がけのことだった。
縄文、大型獣が跋扈(ばっこ)した時代、海、川より安全な陸路などあったろうか。水さえあれば、船は通行できる。晴天の日を選べば、かなりの量の物資が輸送可能だったろう。海は何かを分け隔てるものではなく、実は世界を繋ぐものだった。
左記の図は富山県が環日本海諸国図と題して作成した地図を転載したものである。富山市を中心に同心円状に描かれた世界だ。この地図を眺めていると、日本列島という言葉が実に色褪せて見える。海に国境線などはない。事実、結合釣針、黒曜石を使った銛(もり)、曾畑式土器などの共通文化を持つ海民が、縄文時代前期から朝鮮半島、対馬、壱岐、北九州をまたいで活動していたことが分かっている。
縄文という時間の長さは同時に巨大な面としての広がりを併せ持っていた。今石川、富山をはじめとして、日本海側に連なる多くの県が環日本海という新たな視点で歴史を再定義しようとしている。それは東京、名古屋、大阪という都市に引きずられる日本の現状に対する強いアンチテーゼのようにも私には思われる。
真脇遺跡は海を望む丘陵地に位置する。この地に立つとイルカ漁に沸き立つ祖先達の声が聞こえてくるようだ。日当たりの良い丘、間近に迫る海、そしておそらく辺りを埋め尽くしていたであろう雑木林。真脇を支えてきたのは海の恵みなのだと実感できる。
どうして日本は瑞穂の国と言われるようになったのだろうか。日本の原風景は水田だと考えるようになったは何時の頃からだろうか。大和が進めた班田制と七道の整備。七道とは西日本を中心に張り巡らされた公道のことである。東海道、山陽道など今にその名を残している。その道幅は何と12メートルに及んでいたと言う。今の高速道路にも匹敵するものだ。古代政権が目指した米への執着。そして海に生きる人々は歴史の影に追いやられた。
海から来た弥生人。その数は実に数十万~数百万と想定される。少なくとも数百年に渡ってのことである。しかし、その頃より、明治に至るまで、海民と呼ばれる自由な民がサハリン、朝鮮半島、中国沿岸、更には東南アジアに至るまで縦横無尽に駆け抜けた。その埋もれた歴史を語るにはどうやら紙面も尽きたようだ。

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