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21.三内丸山遺跡その1

zatuwa21  縄文遺跡の2回目は、三内丸山遺跡のお話である。現在確認されている日本最大の縄文遺跡であり、「三内丸山の奇跡」とも呼ばれる。既に訪れた方もおいでることだろう。
さて、まず東北地方のおさらいをしたい。今さら??? みなさんは東北地方の歴史について、どのくらいの知識をお持ちだろうか。大抵の方は、まず平泉を挙げられるに違いない。世界遺産への登録を申請している町、藤原三代の本拠地、中尊寺のある町、いろいろ形容詞はあるだろうが、実はこの町は中世において、日本最大級の都市だった。
平安末期、平泉の人口は10~15万と推定されている。日本の都、平安京が当時16~30万人といわれるから、その規模の大きさが分かっていただけるだろう。なぜ、日本の歴史において、東北がかくも語られないのか。その理由はなんだろう? 一言で答えるなら、「東北は日本ではなかったから」というのが一番正解に近い。
日本という国はいつ成立したのか。日本という国号は、いつ、誰が、どんな理由で用いるようになったのか。あまりにもシンプルな質問だが、正確に答えることのできる日本人はおそろしいほどに少ない。この話題はこのシリーズの最後に取り上げたい。
征夷大将軍、坂上田村麻呂は西暦801年蝦夷と戦い、アテルイを捕らえた。つまり、日本という国は九世紀に入って、初めてその国勢を陸奥の国(岩手県)南部に迄及ぼすことに成功したのである。東北が日本史に出てこない理由はそこにある。蝦夷もアイヌも、大和からみれば、日本人ではなかった。彼らは俘囚と呼ばれる異民族でしかなかった。九州には隼人族が、沖縄には琉球人がいた。彼らからみれば、近畿を中心とした勢力は日本人ではなく、大和人(ヤマトンチュン)であり、国家としての統一感など、どこにもなかった。
それでは東北には、一体どんな文化があったのか。平泉以前も、東北・南北海道は先進的文化圏だった。ただ、語られてはこなかっただけだ。そして今、新たな発見が次々と歴史を塗り替えている。
源義経が奥州平泉から、沿海州に逃れ、ジンギス汗になったいう伝説ロマンがある。その信憑性は無論低い。注目してほしいのは、平泉から沿海州(大陸)に渡ること自体は、当時ありふれた日常だったという事実である。
青森に十三湊(とさみなと)という寒村がある。近くには十三湖がある。この小さな村はかって大陸との交易の拠点として栄えた。しかし、歴史的資料の少なさから、その実像が知られることはほとんどなかった。1991年、国立歴史博物館と富山大学合同による発掘調査は、城館・城下町の想像を超える広がりを証明した。遺跡は鎌倉時代の津軽安東氏を越えて、十世紀にまで遡る可能性が高くなっている。義経はここから、大陸に渡った。少なくとも交通手段はあった。当時を空想するだけで、歴史って楽しい。
17世紀、キリスト教の布教のために北海道に潜入した宣教師アンジェリスに、松前殿はこう答えている。「ここは日本ではないので、布教は差し支えない」と。松前藩は北海道南部松前半島に本拠をおき、一応幕府の支配下にはあったが、石高性の枠外にあった。当時の支配者の意識がよく分かるエピソードである。
奥州藤原氏を支えたのは、奥州17万騎と呼ばれた強大な軍事力と豊かな黄金、交易だった。愚直なまでの平和政策を巧みな外交により成立させた藤原氏の智恵と力。東北が見直されるとき、語られなかったもう一つの歴史が少しずつ明らかになっていくに違いない。あれっ! 三内丸山は最初の二行でしたね。

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