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22.三内丸山遺跡その2

zatuwa22  「大和はまほろば」という言葉がある。「まほろば」は古語「まほら」に由来する。
「真秀(マホ)」に場所を示す接尾語「ラ」が付いて生まれた。素晴らしい場所、住みやすい場所、くらいの意味だが、おそらく日本人には郷愁に似た懐かしさが感じられる単語だろう。
今から六千年前、縄文海進の最盛期、東海、関東の大部分が海中にあった頃。三内丸山遺跡は今の青森県に出現した。現在より三度くらいは高い平均気温、遺跡のすぐ横には沖館川が位置し、太陽と緑に恵まれた理想的立地条件だった。おそらくこの時代、東北こそがまほろばの地であったに違いない。
三内丸山が史料上に登場するのは、江戸時代である。本格的発掘は無論戦後に入ってからだが、エポックは1992年の県営野球場建設のための事前発掘だった。この調査で集落全体の巨大さ、豊富な遺物、大規模な土木工事などが次々と明らかになった。1994年遺跡の持つ重要性を認めた青森県は県営野球場の建設を中止し、遺跡を保存することを決定した。まさに英断だったと言える。

それでは三内丸山はどこがすごいのか。それが今日の本題である。

①遺跡全体が大がかりな土木工事によって造成されている。一種の都市計画に基づいて建設されたとしか考えられないのだ。集落を貫通する道路。九十畳を越える広さを持つ大型竪穴建物。1mに近いクリの柱で支えられた高床式大型掘立柱建物、すべてが桁外れの規模だ。

②その他にも集落全体には墓群、盛土遺構と呼ばれるゴミ捨て場、竪穴式住居群、などが存在し、区画整理したかのように 整然と配置されている。発掘された建物は500棟を超えている。

③山の恵み、海の恵みの両者を持っていた。広大な落葉広葉樹(雑木林)はドングリやトチの実など、豊富な炭水化物を供給した。又河川は青森湾奥と繋がり、イワシ・ブリ・マグロ・マダイなど豊富な蛋白資源の摂取を可能とした。驚くべきことに果実酒の製造や、クリの栽培が行われていた証拠が見つかっている。
④木製器、骨角製器、土器、石器など多様な道具が発見されている。繊維製品、編み物も既に行われていた。豊かな衣食が保障されていたのだ。
⑤多数の遠隔地の産物が発見されている。既に述べてきたが、糸魚川のヒスイ、岩手のコハク、秋田のアスファルト、北海道の黒曜石など、時に加工された道具ともなっていた。この豊かな交流物品は何を物語るのか。交易ルートの存在は勿論、東日本全体に広がった連帯意識、同胞意識をそこからくみ取ることができる。でもこの交易はどういう形で行われたのか。言葉、文字、計算、貨幣、そこにあっても不思議ではない文明の息吹が 感じられないだろうか。
⑥そして、何よりこの遺跡は他と較べて、何もかもがビッグだ。すべてが揃い、すべてが突出している。物の豊かさをだけではない、彼らが何を信じ、愛したか。心の動きまでも遺跡は語っているようだ。酒を愛し、人を愛し、そして神(自然崇拝)を愛した。その自然に対する静かな祈りは多くの土着信仰に繋がっていった。
今、三内丸山には年間50万を超える観光客が足を運んでいる。それは単に縄文時代最大の遺跡に対する好奇心の故か。あるいは現代人が見失ったものに対するノスタルジアなのか? いずれにしても縄文の生き方が再び見直されているのは間違いない。

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