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23.古代出雲の謎

縄文時代について古代出雲大社、いろいろ書いてきたが、しばらく縄文を離れることにしたい。今回から5回は、縄文番外編、古代史の不思議である。無論私的古代史論に過ぎないのだから、半分眉唾で聞いていただければ幸いである。読者諸兄の中で、ご意見や疑問がある方はどんどん投稿してくだされば、もっと喜ばしい限りである。
今回は古代出雲の話である。出雲を象徴する建造物、それは多分出雲大社であろう。この出雲大社だが、その大きさと規模は長い間謎とされてきた。平安時代中期、十世紀後半に源為憲が遺した「口遊(くちずさみ)」の中に「雲太、和二、京三」という言葉がある。この意味がすこぶる面白い。
「和」は東大寺大仏殿、「京」は御所大極殿と解されている。つまり、二番目が大仏殿、御所が三番目という意味である。それでは一番目は? と言うと、「雲太」である。「太」は「太郎、次郎」の太、一番という意味だ。「雲」は出雲大社、すなわち当時出雲大社が一番だったということになる。何が? 簡単に言うと、高さである。焼き討ちにある以前の大仏殿は15丈(約45m)だったと文献に記されている。そして、古代では16丈が大社正殿の高さとされてきた。話は合うのだが、その証拠がなかった。
平成12年出雲大社の境内で巨大な3本一組の木柱痕が発見された。上記のイメージ出雲大社は、その木柱痕から再現された当時の出雲大社のものである。大林組が独自に復元したものだが、その姿は現在の常識をはるかに凌駕している。
一体出雲大社はいつ建てられたのか。誰のために、何のために・・? 古事記、日本書紀の記載からは、一つの共通する事実が窺われる。それは、建築が大和朝廷という当時の最大権力の意志によって行われた一大プロジェクトだったということである。
大国主神を祀るために建築された謎に満ちた大社。その創建年代は未だに特定できていない。天照大神の子に大国主神が国を譲ったとされる国譲りの物語。前者は天つ神であり、後者は国つ神である。大国主神は本当に国を譲ったのか。そこに戦いはなかったのか。何かが歴史の闇に隠されたのではないか。出雲大社を守るべく使命を負わされたのが、天照大神の第2子天穂日命(アメノホヒノミコト)とその子孫である。彼ら一族は出雲国造として出雲に根を下ろす。そこまでして、封印しなければならなかったもの。それは一体何だったのか?
出雲風土記に費やされた膨大な記述。古事記、日本書紀、記紀、風土記。すべてが大和に匹敵する強大な力が出雲に存在したことを示している。古代史上大和の最大の敵、出雲。その敵を封じるために出雲大社が必要だった。私はそう思う。
大国主命の子供、建御名方神(タケミナカタノカミ)は天つ神と戦い、破れたとある。
彼は今、諏訪大社に祀られている。そして、諏訪大社の祭りが御柱祭りである。縄文の影を色濃く残す不思議な祭り。これはすべて偶然だろうか。

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