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24.能登時国家を語る

能登時国家

下時国家

能登という言葉はアイヌ語のノッツ(あご)に由来すると、以前書いた。縄文語がアイヌの人達の言葉に色濃く残っているという仮説に立てば、能登は縄文の地ということになる。その能登でも私が最も好きな場所の一つが曽々木、そして時国家である。
時国家は、石川県人なら誰でも知っているだろう。平家の武将、平時忠は、源氏との戦いに敗れ、珠洲に流された。その時忠の五男が時国であり、能登時国家の始祖である。彼は平氏の姓を捨て 今の輪島市曽々木に時国家を興す。
さて、その時国家だが、どこの案内書にも、名字帯刀を許された大庄屋とか、豪農とか記されている。ところが、江戸時代の時国家の実態は、豪農とはほど遠いものであった。きょうはそのお話である。
神奈川大学日本常民文化研究所が「奥能登時国家文書」を丹念に調べたところ、非常に興味深い事実が見つかった。
それは、江戸初期に時国家が松前で昆布を買い付け、それを京都・大坂まで運んで売却する廻船交易を行っていた、という記述である。記述はそれだけにとどまらない。広大な塩浜で製塩を行い、それを能代などの北方へ運んでいる。元和年間には、鉛山の開発を前田家に申請した文書も見つかっている。
そこから浮かび上がってくる時国家の姿は、決して豪農のイメージではない。それと、本来の時国家は現在の上下両家の位置に建っていたわけではない。江戸時代には、町野川の川沿いに、間口約50mといわれるほどの巨大な家と蔵を持っていた。
想像するに、江戸をさかのぼる中世より、町野川とその河口には数多くの廻船や千石船が行き来したと思われる。荷を下ろす小舟が町野川を埋め尽くす姿が目に浮かぶようだ。ここでも活躍するのは、海に生きる民そのものだ。そこに農民の姿は重ならない。
それではなぜ、時国家=豪農という誤った解釈が現代に伝えられたのだろうか。それがきょうお話しする話題の二つ目である。加賀一向一揆の時代、金沢を含む加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。今から、一向一揆の話を始めるわけではありません。話題はこの「百姓」の意味である。
日本ではなぜか、百姓=農民という図式が歴史上も今もまかり通っている。しかし、この百姓という漢字には、本来「農」の意味は含まれていない。中国でも韓国でも、百姓とは多くの民、庶民、人民を表す言葉だ。何が言いたいのか? そう、江戸時代までに、百姓という職業分類された人達は決して農民だけではなく、きわめて多様な生業を営む人々が含まれていたという事実である。
富裕な商人、廻船人、酒屋も漁民も、百姓である。曽々木に生きた時国家の人達もまた立派な百姓だった。そして、この百姓という言葉が江戸以降、農民に置き換えられていく。その結果、近世日本の人口構造を調べた多くの著書が、農民が77%を占める農業国日本の姿を喧伝することとなった。(参考、網野善彦著、講談社:日本の歴史00日本とは何か)
「新修七尾市史9 海運編」は諸国の港町に残る「客船帳」を蒐集し、能登関係の船の動きを網羅している。その中では、能登加賀の多くの廻船商が北海道江差から日本海、瀬戸内、太平洋側まで縦横無尽に活躍していた姿が今によみがえる。

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