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26.憧れの渤海

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」遣唐使、阿倍仲麻呂が中国で詠んだあまりにも有名な和歌である。幼少の頃より、俊才を謳われた彼は19才で渡海する。唐でも科挙に合格し、昇進を重ねるが、ついに日本への帰国が叶えられることはなかった。遠き異国で生涯を終えた心中を思うとき、和歌がひたすらに哀しい。
さて、隋、唐と渤海地図続いた中国、そして日本。歴史上、私たちが習うのは唐のことばかりだ。それほど日本と唐は深い関係にあった。唐のことを調べれば、多くの日本人の足跡を未だに探し当てることができる。でも、実は当時日本が交易、外交を繰り広げていたのは決して唐だけではなかった。それに匹敵するほど大きな交易国があった。それが渤海だ。
ところがなぜか、渤海はあまり注目を集めることはなかった。渤海使と呼ばれる使節団が記録に残るだけでも計34回も来日している。その期間も西暦727年から200年の長きにわたっている。当初は軍事的必要性から近づいた両国だが、その色彩はやがて文化的、商業的関係に変遷していく。
渤海は、高句麗滅亡後、その遺臣たちによって、698年に今の北朝鮮、中国、ロシアにまたがる地域に作られた国である。最盛期にはかなり強大な国となったにもかかわらず、日本の歴史上ほとんど注目されてはこなかった。実は戦前には東京大学を中心として、渤海が盛んに研究された時期があった。そして、今再び渤海が静かなブームを集めている。
渤海が注目されてこなかった最大の理由は、彼らが自国の史書を持たないからである。その歴史的考察は中国やロシアの文献に拠るしかない。そのため、前述の三国の間では、渤海の国家としての存在意味そのものが大きな論争を巻き起こしている。民族も雑多なら、国のありようも極めてアバウトなのだ。つっこみどころ満載と言える。だが、それが渤海の面白さでもある。
それでは今渤海が注目されている理由。それは渤海の残した足跡が、思った以上にこの国に残されているからである。渤海使が来日した港は、実に数多い。最初に流れ着いた場所は東北に片寄っていたらしく、一行の大半は蝦夷と呼ばれた東北人に殺害された、と文献にある。問題は帰りである。渤海使は帰りはいつも同じ港を使ったのである。それはどこか? なんと石川県の富来町なのだ。当時富来には、渤海使のための迎賓館があった、と言われている(どんな規模かは私は知らないけど)。ちなみに現在富来には、「シーサイドヴィラ渤海」と呼ばれる町営の宿泊施設がある。施設は立派なのだが、温泉はやたら塩素くさい。なんで知ってるかって? 無論泊まったからだ。
渤海使の話ばかりしているが、渤海使が帰るときには、日本から遣渤海使が付き添って、彼の国へ渡った。おそらく遣唐使と同じく、渤海に渡り、そこで生活した多くの日本人がいたに違いない。そこで暮らし、結婚し、生涯を終えた名も無き人達である。渤海の研究は今現地の発掘調査という形で、少しずつ進んでいる。ここでも障害となるのは、渤海という国が三国にまたがっているという現実だ。自国の遺跡をそれぞれの国が自分流に掘っているから、仲良く研究という形にはなかなかならない。
2004年11月7日「古代能登の対岸世界」と題したTOGI渤海シンポジウムが富来で開かれた。抜海の都と平城京の類似性など、素人ながら興味深い事実が沢山あった。歴史は面白い。そして、世界は狭い

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