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29.日本とは何か~その2

前回、日本とは7世紀末にこの列島に出現した国だと書いた。それでは、それ以前にあった国は何かというと、答えは「倭」である。言うまでもなく、この倭は決して日本とイコールではzatuwa28ない。
倭が公文書に登場するのは、『漢書』地理誌にある「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす」が最初である。紀元前1世紀くらいの時代だ。時代が下って。5世紀に入ると、倭王武は宋の皇帝へ「東は毛人を征すること五十五カ国、西は衆夷を服すること六十六カ国」と伝えている。毛人とは、今の関東から東北南部にいた教義の東国人のこと。衆夷とは今の中部九州以南の人々である。つまり、この頃の倭人は東北南端から、中部九州までが勢力範囲だった。それとは別に、済州島・朝鮮半島南部にも倭人が住んでいたことが確認されている。後者はやがて新羅人と同化する。
話を整理してみよう。倭の成立当初、毛人、衆夷は果たして倭人と言えただろうか。国と民族、言葉とはかように変遷していくものである。7世紀末、日本という国が成立したとき、それを望んだかどうかは別にして、彼らはすべて日本人となったのである。そんなことは世界史では日常茶飯である。
ここまで考えてくると、日本人の定義も落ち着くところは一つである。日本という国制の下に暮らした人々と定義するしかない。そこに民族や言葉を持ち込むと混乱するばかりだ。一つの国に多様な民族が住み、いろんな方言を使う。それが日本である。断じて日本は単一民族ではない。聖徳太子は倭人か、それとも日本人か。それは宿題としたい。
さて、それでは次に日本という国号について考えてみよう。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」は遣隋使が持参した倭王の国書である。小さいながら、隋帝国に対して自立しようとした強い自負が込められている。教科書にも必ず出てくる文章である。日本という名称がこの「日出づる処」から来ていることは、ほとんど異論がない。日の本(ひのもと)とは、東の日の出るところを指す。
ところでこの国号は少しおかしくはないだろうか。「日出づる」とは、どこから見たものなのか? 日本にいて、ここから日が出づるはずがない。つまり、この国号は当時の唐帝国から見て初めて成り立つものなのだ。そして、唐の即天武后は、倭の使者が申し出た国名の変更を認めたのである。つまり、日本という名称は、当時の中国を強く意識したものであり、当時の東アジアは中国を中心として動いていた。皮肉なことに、これと軌を一にして、唐は周へと国名を変更する。これは偶然の一致だろうか。
倭が日本へと変わった頃、もう一つ変わったものがある。それはヤマトの王の名称である。ご存知だろうか。日本で天皇という名称が登場するのは、天武天皇からなのだ。日本という国号が飛鳥浄御原令によって定まったのと同じく、王の称号も「大王」から、「天皇」へと公式に変更された。日本と天皇とはその誕生から、切っても切れない関係にあることを知っていただきたい。次回は、そのお話をもって最終回としたい。

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