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03.プラス3度の世界

三内丸山遺跡 1992年野球場建設のために行っていた発掘調査で、巨大な集落跡が発見された。これが縄文史を塗り替えた青森県三内丸山遺跡である。遺跡の発掘が進むにつれ、その広がりは留まるところを知らず、総面積は35haを超えると推定されている。
竪穴式住居跡が数百棟単位、掘立柱建物が100棟以上、盛土遺構、土塙墓、それらの遺構を縦横に繋ぐ道路の整備。更には果樹園、様々な装飾品の発見。その様相はまさに都市国家と形容するにふさわしい。
狩猟採取の生活。そのために定住せず、各地を放浪する生活をしていた。粗末な毛皮を身にまとい、精神生活も遙かに遅れていた時代。私は中学校の歴史でそう習った。そのすべてが大きな誤りであったことを三内丸山は証明したのだ。
三内丸山についてはまだまだお話ししたいことが沢山ある。今日の話題は「なぜ三内丸山なのか」という疑問である。実は我が国の縄文遺跡の多くは東北、北陸、関東を中心とした東日本に集中しているのである。なぜこんな寒冷地に?衣食住がまだ整っていなかった時代に?誰もが持つ素朴な思いだ。だが答えは拍子抜けするほど簡単だ。その頃東北は今よりずっと暖かかったのである。平均気温は現在より約三度高かったと推定されている。前回もお話しした原日本人となるブリヤード族がバイカル湖から南下し、陸地伝いに日本へ移り住んだ。無論その頃の日本は決して島国ではない。日本海は内海であったことは皆さんもよくご存知だろう。
その後今の世界と同じく、地球は温暖化の道を歩み始めた。縄文海進と呼ばれる海面上昇が起こり、そのピークは縄文前期の今から六千年前と言われている。日本列島は大陸から切り離され、列島に残った縄文人はおそらく進んでくる海の前に恐怖したことだろう。今よりは遙かに過ごしやすかった東北地方。そして最も故郷バイカルに近い土地。その姿は能登出身者の多くが金沢の北西に住む姿に重なる。その一人が私でもあるわけだが・・。 関東も東海も、現在の主要都市はほとんど海の中にあったと言ってよい。今でも海岸線から遠く離れた内陸部で貝塚が発見されているのはその証左である。
東北から、日本海に沿う東日本は紛れもなく日本の中心だった。青森の三内丸山、秋田の大湯環状列石、新潟の寺地遺跡、富山の桜町遺跡。そして能登には真脇遺跡、金沢郊外にはチカモリ遺跡がある。特に寺地遺跡はその当時日本で翡翠の生産地であった姫川に近く、翡翠の加工工場があったと考えられている。翡翠を加工し、それを装飾品としていた人達。そして、その加工品が日本各地の縄文遺跡で発見されている。縄文時代とは一体どういう時代なのだ?そして、縄文人は一体どういう人達だったのだ?真脇遺跡に立つと、
この地に生きた縄文人の姿とエネルギーが垣間見える。四千年間我々の祖先はこの地に住み続けたのだ。

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