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04.縄文と弥生

私はこのエッセイで繰り返吉野ヶ里遺跡し、「縄文時代は平和な時代だった」と書いてきた。人類の歴史は戦争の歴史と切っても切れない関係にある。中国歴代王朝の変遷には必ず長く大きな戦いが起こっている。およそその他の地域も同じようなものだ。どうして日本の縄文時代、一万年間だけが例外なのか?信じられない・・・
縄文の代表として、青森の三内丸山。そしてもう一つ、日本で代表的な弥生遺跡、佐
賀県の吉野ヶ里遺跡を比べてみよう。吉野ヶ里遺跡は1986年からの発掘調査によって発見された我が国最大の弥生遺跡である。紀元前3世紀から、3世紀までの600年間続いたと言われている。この時点で縄文と弥生ではその遺跡の刻んだ長さが一桁違うのである。三内丸山遺跡
この二つの遺跡の最大の違いは何だろうか。三内丸山になくて、吉野ヶ里にあるもの。それは何だろうか。米だろうか。勾玉、青銅器、鉄器だろうか。おそらくはそのいずれも両者を分け隔てる大きな違いではないように思える。
吉野ヶ里には大きな二重の環濠、物見櫓がある。環濠はV字型となっており、その総面積は約40haにも及ぶ。この環濠が集落全体を囲んでいるのだ。何のために?無論敵から集落を守るためである。そうここには戦争があったのだ。物見櫓もその見張りのためと考えるのが妥当だろう。そして、遺跡の甕棺(死体を入れた棺)からは矢じりの刺さったままの骨や首から上のない骨が多数発見されている。魏志倭人伝が言う「倭国大乱」の影がここにはある。
三内丸山にも真脇にもそのような遺構は何もない。これは何を意味するのだろうか。無論小さな喧嘩はあったかもしれない。しかし、集落の興亡をかけた戦いはなかったと考えざるをえない。そして、専門家によって、多くの理由が挙げられている。
農耕文明がまだ開花していなかった時代。余剰の産物がない中ではお互いに争う理由がなかった。あるいは彼らが血縁関係だったこと。集落の最大人口は約500人。それが増えも減りもせず、何千年も続く。しかも同じ地域で・・。しかし、そうせざるをえなかった。縄文時代の食料自給から計算した人口は最盛期で25万人程度(全国)と言われる。それだけの食料しかなかったのだ。共生と持続型社会、縄文一万年はそんな時代だった。縄文こそが我々の道標だ。
もう一つ忘れてならないのは彼らの信仰である。原始アニミズム。自然をあがめ、自然の中に様々な霊性を感じる。山も海も、そして木々も彼らの支配を超えた神だった。そうした自然に対する敬虔な恐れが四大文明で引き起こされた大量の自然破壊を防いだ大きな要因だろう。梅原猛氏はそう指摘している。
自然の中でも、木・大木こそは縄文の信仰そのものだ。三内丸山にも、大湯環状列石にも、そして真脇にも大きなクリの木をサークル状に並べた跡が残っている。その直径は1mに及ぶ。木は天と地を繋ぐもの。神が渡ってくるものであり、そして神そのものだった。諏訪に伝わる御柱祭り、正式名称は「式年造営御柱大祭」。大きな樅の木を山より切り出し、それを無数の綱で結わえて斜面を下りる、その勇壮な姿は必ずテレビ中継されるほどだ。そして、常に負傷者が出る。この祭りの源流は平安時代までしか辿れない。
この諏訪神社の神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」である。父大国主命は出雲の国譲りの神話で知られる。この国譲りの神話が縄文と弥生というフィルターを通してみると又違った日本史が見えてくる。建御名方神が諏訪に祀られているのは決して偶然ではあるまい。もう一つ、靖国神社に祀られる戦没者は一柱、二柱と数えられる。この国では紛れもなく、木は神そのものなのだ。

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