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07.木の文化と文字

木簡

奈良時代の木簡

ところで読者の皆さんは日本語の由来をご存知だろうか。この場合の日本語とは文字のことではない。漢字にせよ、平仮名にせよ、そうした文字が出現するずっと以前から日本語(言葉)は存在していた。言葉なくして縄文人達が自分たちの意思の伝達や交易を成し遂げられたとはとても考えられない。それでは原日本語とはどんなものだったのか。

これはもう立派な論文である。医師会報の巻末にちょこちょこと書ける代物でもない。「縄文語の発見」「日本語の歴史」などと言う難解な本を読み始めてはみたが、私の頭では到底理解不能であった。というわけでこの辺りは編集長をお役ご免どころか、開業医をリタイアしてからの宿題と相成った。
さて、ここで終わっては余りにも寂しい。日本語の起源が無理なら、せめて日本の文字について、少し考えてみたい。ところがこちらの方はまるで簡単な結論なのだ。漢字輸入以前に日本に固有の文字はなかった。これが今の日本考古学会の結論である。時に神代文字、超古代文字というフレーズの書物を目にするが、あくまでもSFの域を出ていないのが現実である。
日本に固有の文字がなかったいう証の一番の拠り所は隋書倭国伝にある。「倭人に文字は無く、木を刻み縄を結ぶだけ」という記述がそれだ。それともう一つ。漢字以前の文字を刻んだ資料がほとんど見つかっていないのだ。世界の四大文明にはすべてに文字が存在している。ヒエログリフ(象形文字)、楔形文字、インダス文字、甲骨文字然り、そして、それらに共通しているのは刻まれた対象が石であり、骨であることだ。それらは何千年の時を超えて後生に伝えられる。
隋書倭国伝にある通り、倭人が刻んだのは木であった。それだけではない。三内丸山、真脇に残る大型掘立柱建物もすべては木造建造物である。直径1mを超える柱の跡が如何に整然と並んでいようと、その柱の上に存在した建造物は所詮想像するしかないものなのだ。寒暖の差の激しい風土、多湿、そして酸性土壌、日本には石より木がよく似合う。そして、それ故に日本の文化は後世に伝わらなかった。何千年の時を超えて、現在に伝わる木製遺産など想像できようか。奈良時代以降に見られる木簡でさえ、その出土はごく限られている。
それでもである。倭人が木に刻んだものは何だったのか?ひょっとして表意文字以前の絵文字だったのではないか。それは到底中国(隋)人には文字とは認めがたいものだったのではないか。そう想像はふくらむ。想像を超えて、妄想の世界かもしれないが・・・。
三内丸山に縄文文化が栄えた頃、黄河下流には黄河文明の一つである仰韶文化(ヤンシャオ)文化が花開いていた。更に中国東北部にある興隆窪遺跡からは三内丸山と多くの類似性が発見されている。遺跡の存在する緯度、低い丘陵地、耳飾り、土壙墓、原始宗教の類似性など、何らかの交流があったと考えるのが自然だろう。
古代インカ帝国では文字の代わりにキープと呼ばれる撚り紐が使われていた。キープの色、結び目の形、その位置によって、様々な情報を伝えていたと言う。縄文時代、木の文化にはどんな文字が存在したのだろうか。

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